日本では、なかなか女性の社会進出が進まない。中でも社会のトップに立つ女性の割合が相変わらず非常に低い。例えば、2018年の国会における女性議員の割合は13.7%で、統計に載っている191カ国の中では140位。世界平均の23.4%をはるかに下回る。この191カ国の中には、30%を上回る国が44、25%を上回る国が66もあるのだから、日本の現状は悲惨だ。
先日、ある国の大使館での晩さん会で日本の女性の地位の話になったとき、大使夫人が「こんな状態では日本は民主主義国家とは言えない」と苦言を呈していた。それは確かにその通りだろう。女性議員の数だけが重要な数字ではないが、国民の意見を代表するのが国会議員なのだから、もっと増やすべきである。
女性と男性は、いろいろな意味で異なる状況に置かれている。妊娠、出産、授乳に伴う肉体的なコストは女性の方が大きい。これは哺乳類としての基本的な性差である。このことが出発点となり、感覚器の使い方や気質などにも性差が出てくる。
例えば、進化史上、女性は、自分が死んでしまえば子どもも死ぬことになる状況が多いので、周囲を慎重に見てリスクを回避する傾向が強くなるように進化する。また、乳飲み子を抱えながら、よちよち歩きの子どもがまわりにいるという中で仕事をするので、視覚、聴覚、触覚などを同時に働かせねばならない状況にあり、マルチな感覚の同時使用にたけるように進化する。同性同士の社会関係の作り方や、相手の気持ちの読み方などにも、男性との微妙な差異が進化する。
これらは、何億年という哺乳類の進化の中で培われた性差だ。しかしヒトという生物は、男性も女性も親族も非血縁者もみんなで協力しながら暮らす社会性の動物であり、みんなで子育てする共同繁殖の哺乳類である。だから、ヒトの生物学的性差は、他の多くの哺乳類よりもずっと小さい。
しかし、このような性差がもとになって、人類が築いてきたいろいろな文明の中で、男女の暮らしや活動が少しずつ異なることになり、男らしさや女らしさの概念が作り出されてきた。その多くは、子育てのコストが小さく、一つのことに集中できて、リスクテーカーである男性にとって都合のいいあり方であった。それが今日まで尾を引き、現代社会においても、男性と女性が置かれている状況や立場には差異がある。
政治には、なるべく多くの異なる立場や状況の人々の意見が取り上げられるべきだから、女性の政治家をもっと増やすべきだろう。
国会議員に占める女性の割合が低いのは象徴的だが、日本社会は一般に、女性が高い地位にいることはないという大前提で動いている。「学長が乗ります」と言われたタクシーの運転手は、当然男性がやってくると思い込んでいて、私には見向きもしない。会社や役所のエライ人に会いに行くと、相手はまず、私と一緒にいる男性の理事や事務局員の方を見て、そちらに名刺を渡そうとする。いちいち怒るのもばかばかしいが、不愉快なのは事実。
「何が起きたのか?」という題名の本がある。ヒラリー・クリントン氏が、16年の米大統領選を戦ったときのことを書いた本だ。ビル・クリントン氏のファーストレディー、ニューヨーク州の上院議員、オバマ政権での国務長官と、華麗な経歴を持つ彼女だが、初の女性大統領はかなわなかった。アメリカは自由と民主主義の国だが、実は、国会議員に占める女性の割合は、ドイツよりもフランスよりも英国よりも中国よりも低く、19.7%で101位である。「マッチョな男と優しい女性」という文化なのだ。
本の中に、彼女の家に掲げてある標語が出てくる。「男のように考え、淑女のように振る舞い、少女のような外見で、ウマのように働け」というものだ。うーん、それはよく分かるのだが、私はこれに注釈をつけたい。「男のように考え(しかし男になっちゃダメ、その思考方法自体を批判的に考え)、淑女のように振る舞い(しかしオジサンを刺激しない戦略を立てながらも、主張すべきは大胆に主張し)、少女のような外見で(しかし年を取ることを恐れず恥じず)、ウマのように働け(うん、まあ、その通りかも)」