2025.05.12
【プレスリリース】微小空間に閉じ込められた光を用いて少数分子から生じる和周波発生信号を検出 ―分子の向きも識別できる次世代のナノ計測技術―
発表のポイント
概要
分子科学研究所の櫻井敦教助教、高橋翔太特任助教、望月達人大学院生(総合研究大学院大学)、杉本敏樹准教授らの研究グループは、走査トンネル顕微鏡(STM)(3)の探針先端と試料基板の間に形成される1 nm以下の空間にフェムト秒パルスレーザー(4)を照射することで、ナノスケールの微小空間に存在する分子から生じる和周波発生信号の観測に成功しました。従来の和周波発生分光法では、光の回折限界(5)の制約から、得られる信号はサブマイクロメートル程度の領域に存在する100万個以上の分子の平均的な情報でしたが、本研究では回折限界をはるかに凌ぐ微小空間からの信号を検出することに成功しました。さらに、得られた信号の解析により、この微小空間に存在する少数の分子の向きを識別できることも確認しました。
本研究は、今後、超高感度・超高解像度の分子イメージングや、単一分子レベルの超高速分光といった次世代の計測技術への発展が期待されます。これは触媒表面など、ナノスケールの不均一な構造をもつ表面で進行する反応活性の違いが、分子の吸着構造とどのように関連しているのか、さらにその活性の違いが分子ダイナミクスとどのように結びついているのかを詳細に理解するための重要なツールになると期待されます。
本研究成果は、国際学術誌「Nano Letters」に、2025年4月10日付でオンライン掲載されました。
1.研究の背景
和周波発生は、分子の振動に共鳴する赤外光(6)と、それとは異なる周波数の光を同時に照射することで、両者の周波数の和に対応する光を生成して測定する分光手法です。赤外光を用いると分子固有の特徴的な振動スペクトルを取得することができ、分子種の同定や分子構造の決定に役立ちます。さらに、和周波発生分光法には、物質表面に存在する分子からの信号を選択的に検出できるという特徴があるため、これまで表面科学の分野で重要な計測手法として利用されてきました。
和周波発生分光法を用いると、分子が上向きか下向きかといった「絶対配向」を検出することができます。物質表面では、同じ分子でも配向に応じて反応性や機能が変わることがあるため、分子の絶対配向を検出できることは、和周波発生分光法の重要な利点となっています。さらに、フェムト秒パルスレーザーを利用している利点を生かし、原子核のフェムト秒スケールの運動を捉える超高速分光へ応用することも可能です。
しかし、従来の和周波発生分光法は、光の回折限界の制約により、空間分解能(7)がサブマイクロメートル程度にとどまっていました。そのため、得られる信号は100万個以上の分子の平均的な情報に限られていました。
一方、走査プローブ顕微鏡(SPM)(8)に用いられる探針と基板の間に光を照射すると、ナノスケールの微小空間に局在する「近接場」と呼ばれる光をつくり出すことができます。SPMの探針に光を照射しながら試料表面を走査することで、ナノスケールの空間分解能を有する走査型近接場光学顕微鏡(SNOM)という技術が開発されてきました。
以上のことから、和周波発生分光法とSNOMを組み合わせれば、物質表面の分子の詳細な情報をナノスケールで観測できる新たな計測手法になると期待されます。しかし、これまでそのような測定を実現するのは非常に困難でした。
2. 研究の成果
研究グループは、走査トンネル顕微鏡(STM)の探針と試料基板の間に形成される微小空間に、中赤外および近赤外のフェムト秒パルスレーザーを照射することで、基板表面に吸着した分子から生じる和周波発生信号を測定しました(図1)。その結果、探針と基板が50 nm離れている場合には、信号はほとんど観測されませんでしたが、両者を近接させると顕著な和周波発生信号が観測されました(図2)。さらに、照射する中赤外光の波長を少しずつ変化させて合計8本の和周波発生スペクトルを測定したところ、スペクトル中の3か所(図3の赤色の矢印)に明瞭なディップ構造(凹み)が観測され、これが分子振動に由来することが分かりました。また、探針と基板の間の距離を1 nm離すと信号が消失したことから、この信号が発生している領域は、基板の表面から垂直方向に1 nm以内に局在していることも明らかになりました(図4)。

図1 (a) 実験の模式図。中赤外光と近赤外光のフェムト秒レーザーを同軸に重ね、探針先端と基板の間に照射することで、探針-基板間の微小空間に存在する分子からの和周波発生信号を検出する。(b) 実際の実験装置。STMの内部に組み込まれたレンズを用いて、探針と基板の間に形成される微小空間に緑色レーザーを集光している。中赤外光および近赤外光はどちらも目に見えないため、光学系の調整には緑色レーザーを使用している。

図2 探針–基板間距離を接近させた場合(コンタクト)と、50 nm離したとき(ノンコンタクト)に観測された和周波発生信号の比較。ノンコンタクト状態では信号はほとんど観測されなかったが、コンタクト状態では顕著な和周波発生信号が観測された。

図3 観測された和周波発生信号。入射する中赤外光の波長を少しずつ変化させながら、合計8本の和周波発生スペクトルを測定した。赤色の矢印で示された3か所のスペクトルのディップ構造(凹み)が、分子振動に由来する信号である。

図4 探針と基板の距離を1 nm離すと、観測される和周波発生信号はほぼゼロになった。この結果から、和周波発生信号が生じている領域は、基板表面から垂直方向に1 nm以内の空間に局在していることが分かる。
さらに、得られた信号の解析により、観測された3つの振動スペクトルは、吸着分子のメチル基に由来する①対称伸縮振動モード(図6(a))、②変角振動の倍音(図6(b))と対称伸縮振動が混成したフェルミ共鳴モード(9)、および③非対称伸縮振動モード(図6(c))であることが分かりました(図5)。またこれらのスペクトルに対してフィッティングを行い、2次の非線形感受率(χ(2)(ωIR ))(10)を導出したところ、その虚部が負の値を示しました(図5(b))。これは対応するメチル基が、水素原子を基板に対して上に向ける形で配向していることを示しています。実際、基板に吸着した分子の向きはそのようになっていることが分かっているので、本手法を用いて微小空間に存在する分子の配向を識別可能なことが確認されました。

図5 (a) 得られた実験データとそのフィッティング結果(黒線)。観測された3つのモードは、メチル基の①対称伸縮振動、②変角振動の倍音と対称伸縮振動が混成したフェルミ共鳴、③非対称伸縮振動であると同定された(図6も参照)。(b)フィッティングから得られた数値をもとに導出した分子の2次の非線形感受率の虚部(Im[χ(2)(ωIR )])。この値が負であることは、対応するメチル基が水素原子を基板に対して上に向ける形で配向していることを示している。



以上の結果から、本研究ではSTMの探針と基板の間の極めて小さな領域に存在するごく少数の分子から発生する和周波信号の観測に成功しました。さらに得られた信号の解析から分子の絶対配向を明らかにし、信号発生領域が1 nm以内に局在していることも実証しました。
3. 今後の展開・この研究の社会的意義
本研究は今後、超高感度・超高解像度の分子イメージングや、単一分子レベルの超高速分光といった次世代の計測技術へ発展していくことが期待されます。不均一触媒などの表面反応では、ナノスケールで不均一な構造をもつ表面に分子が吸着し、反応が進行します。本計測技術により、そのような表面分子の吸着状態や配向を、非常に高い空間分解能で計測することが可能になれば、分子の吸着構造と反応活性がどのように関連しているのかを詳細に理解することができるようになると期待されます。さらに、こうして得られた知見は、より高活性な触媒を設計するうえでの指導原理の確立にも貢献できると考えられます。
4. 用語解説
- (1)和周波発生信号
分子の振動に共鳴する赤外光((6)参照)と、それとは異なる周波数の光を同時に照射することで、両者の周波数の和に対応する光を生成して測定する分光手法。詳しくは「1. 研究の背景」も参照。 - (2)プラズモン
金属中の自由電子が集団的に振動する現象。金属ナノ構造に光を照射するとプラズモンが励起され、とくに共鳴条件下では局所電場が著しく増強される。この現象はプラズモン増強と呼ばれ、ナノスケールで高強度の電磁場を生成する手段として広く利用されている。 - (3)走査トンネル顕微鏡(STM)
探針(プローブ)と呼ばれる非常に細い針を、試料に0.1ナノメートル程度まで近づけると、量子力学的な効果によりトンネル電流が流れるようになる。このトンネル電流の大きさを指標としながら、探針で物質表面上をなぞっていくことで、表面の電子状態や凹凸構造を原子分解能で観測できる顕微鏡。 - (4)フェムト秒パルスレーザー
フェムト秒(1フェムト秒 = 1000兆分の1秒 = 10-15秒)という極めて短い時間だけ高い強度をもつパルス光を発生させるレーザー。電子移動や分子振動緩和などの物理化学現象はこのように非常に速い時間スケールで進行するため、これらの現象を観測する超高速分光の光源として広く利用されている。今回の研究では、パルス幅が300フェムト秒の中赤外パルスレーザーと、1000フェムト秒の近赤外パルスレーザーを使用した。 - (5) 光の回折限界
レンズなどを使ってどんなに光を集光しても、その焦点の大きさは決して点にはならず、光の波長程度の大きさを持ってしまう。この限界値のことを回折限界という。 - (6)赤外光
我々の目で見ることのできる可視光(およそ380–780 nm)より波長が長い電磁波は赤外光と呼ばれる。とくに波長2.5–25 μm程度の光は中赤外光と呼ばれ、分子を構成する原子核の振動(分子振動)と共鳴することから、分子の振動スペクトルの観測に利用される。また可視光と中赤外光の間の波長範囲(0.78 – 2.5 μm )は近赤外光と呼ばれる。 - (7) 空間分解能
空間的にどれだけ小さな構造を区別して観察できるかを表す性能の指標。(5)の回折限界の制約から、光を用いた通常の光学顕微鏡では、光の波長程度の大きさより小さな構造を見分けることはできない。 - (8) 走査プローブ顕微鏡(SPM)
探針(プローブ)を試料表面に近づけて、表面の形状や物性をナノスケールで観察・測定する顕微鏡の総称。代表的なものに、(3)で述べた走査トンネル顕微鏡(STM)と原子間力顕微鏡(AFM)がある。 - (9)フェルミ共鳴
エネルギー準位が近い2つの振動状態が相互作用して混じり合い、スペクトルに特徴的な変化が現れる現象のこと。メチル基では変角振動モードの倍音と伸縮振動モードのエネルギー準位が近いため、変角振動の倍音が強められた信号が観測される。 - (10)2次の非線形感受率
強い電場が物質に加わったときに生じる非線形な分極の大きさを表す物理量で、通常χ(2)と書かれる。χ(2) は一般に複素数で表され、その虚部(Im[χ(2) ])は物質の吸収応答を表し、その符号から対応する振動モードの絶対配向も決定できる。
5. 論文情報
6. 研究グループ
自然科学研究機構 分子科学研究所
7. 研究サポート
本研究は以下の支援の下で実施されました。
杉本 敏樹
・JST 戦略的創造研究推進事業 さきがけ(JPMJPR1907)
・JST CREST(JPMJCR22L2)
・JSPS科研費 基盤研究(A) (JP19H00865, JP22H00296)
・防衛装備庁 安全保障技術研究推進制度(JPJ004596)
櫻井 敦教
・JSPS科研費 基盤研究(B)(JP23H01855)
・JSPS科研費 若手研究(JP20K15236)
・公益財団法人 カシオ科学振興財団 研究助成(38-06)
・公益財団法人 光科学技術研究振興財団 研究助成
高橋 翔太
・JSPS科研費 特別研究員奨励費(JP22KJ3099)
8. 研究に関するお問い合わせ先
- 櫻井 敦教(さくらい あつのり)
分子科学研究所 物質分子科学研究領域/総合研究大学院大学 助教
TEL:0564-55-7287
E-mail:asakurai@ims.ac.jp - 杉本 敏樹(すぎもと としき)
分子科学研究所 物質分子科学研究領域/総合研究大学院大学 准教授
TEL::0564-55-7280
E-mail:toshiki-sugimoto@ims.ac.jp
9. 報道担当
- 自然科学研究機構・分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
TEL:0564-55-7209 FAX:0564-55-7340
E-mail: press@ims.ac.jp - 総合研究大学院大学 総合企画課 広報社会連携係
TEL:046-858-1629
E-mail:kouhou1@ml.soken.ac.jp