時代の風~第57回 「和」乱さない社会 議論を避ける日本人(2022年12月11日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

「和」乱さない社会 議論を避ける日本人

このごろの日本社会を見ていて気になることの一つは、人々が議論を避ける傾向にある、ということだ。まじめに議論するという文化の衰退とでも言おうか。

私の青春時代は、学生運動が衰退する直前と言えるだろうか。あのころは随分といろいろなことを議論したものだ。私より 5 歳も下の年代になると、もはやあのころの熱気はないのだが、それでも、いろいろなことを議論してはいる。

それに比べると、この数十年の変化ははなはだしい。若手の研究者たちや大学院生たちを家に招いてパーティーをしても、彼らどうしの間ではほとんど何も議論しない。今の社会に満足しているのではないにもかかわらず、そのような意見表明をしない。

いつのころからなのか、日本人は議論をしなくなった。そして、そのような社会的風潮とともに、「議論」ということは、誰かのやり方に「難癖をつける」ことと同じだと思われるようになったのではないか。そして、それは、和を乱す、避けるべきこととなったのである。場を共有している人々の間で波風を立てないことが随分と大事なことになってしまったようだ。

しかし、そもそも議論とは、他人のやり方に難癖をつけることではない。議論とは、考え方も立場も異なる人たちが、ある現状に対するそれぞれの意見を表明し、さまざまな対立を越えて、社会全体として、どんな解決に落ち着くのかを探る手段である。それは、文化の―つの重要な要素であろうが、それが弱くなっていると危惧している。

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まともに議論を進めるには、いくつかの作法がある。まず、建設的な議論をするには、論点をはっきりさせ、枝葉を落として論理的に話さねばならない。そして、相手と異なる意見を表明するならば、それはなぜなのかを互いに明らかにせねばならない。そうして、妥協点、合意点を探るのである。

次に、このような論点における議論を、感情的対立と分離せねばならない。あんなことを言っやつは許せないというように、立場の違いが感情的対立に発展することはままあるのだが、そうしてはいけないのだ。

これは難しいことではあるが、誰でも自分の人生は大切であり、社会の一員として一生懸命働いているのは同じなのだ。そこに共感を持って、相手を完全なる「敵」とは見なさない余裕が必要なのである。

これらの議論の技法は、黙っていても誰にでも身に付くものではない。成長とともに直立二足歩行するようになるのは、人間の本性の一部だが、議論の技法はそうではない。教育と経験によって学習していかねばならないのである。

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では、日本はそのような教育をし、そのような経験を積むような社会を作っているだろうか?私は怪しいと思う。建設的で意味のある議論を行っていくためには、まずは、一人一人の個人が自分の意見を持たねばならない。自分の意見といっても、要するに「自分は何をしたいか、何があればうれしいか」ということの表明なのだ。

問題を抱えて困っている児童からの相談にも、「校則がこうだから、他の立場の人間がこうすべきだと考えているから、こうしなさい」ではなくて、「あなたは何がしたいの、何があれば満足するの?」と聞かねばならないのだ。こうして、日常生活のささいな事柄のすべてにわたって、「自分の意見」を形成することを促さねばならない。

そして、そんなことが、学校という特殊な揚所のみで終わることなく、社会がそのような議論に基づいて運営されねばならない。最近は、初等中等教育でも、大学でも、ディベートをするという機会が設けられるようになった。しかし、これが学校という特殊な環境のみで行われるものであり、社会に出れば、みんな暗黙の了解のもとに意見を言わないのが一番だ、という社会ではいけないのである。

昨今、ダイバーシティー(多様性)とインクルージョン(包摂)が大事だとうことがよく言われるようになった。しかし、それに伴うコストを日本人はどれだけ認識しているのだろう。本当にダイバーシティーを認め、インクルージョンを実現する社会を作るためには、個人の考えどうしの相当なぶつかり合いが必須である。そのコストを負うことのできる次世代を作るのが喫緊の課題だ。

(2022年12月11日 )

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