2017.09.28

平成29年度秋季学位記授与式 学長式辞 【9月28日】

あなたにとって博士号の意味は?


本日は、皆様方にとって、また私どもにとっても、大変重要な日です。この数年にわたる多くの努力の末に、みなさんは学位論文を書きあげ、最終試験に合格し、本日、博士の学位を授与されました。おめでとうございます! 総研大の学長として、また、何十年か前に同じ経験をたどった者として、この機会を皆さんとともに祝いたいと思います。
数年前、皆さんは、ある特定の研究目標を追求し、その分野で興味深い疑問を解決し、何らかの発見をしたいという思いで総研大に入学しました。今やその結果が得られ、皆さんは、何程かの満足を感じていられると思います。「何程かの」と申しましたのは、研究とは終わりのない営みであり、どれだけ努力しても、完全に満足するということはないからです。初めに抱いていた疑問が解ければ、それはよいことだし、幸せに感じます。しかし、すぐにも、あれを付け加えれば、これをすれば、もっとよい結果が得られるかもしれないと考えるようになり、そうこうするうちに、以前は考えていなかった疑問がわいてきます。それを解決すると、また別の疑問がわいてくる、ということの繰り返し。本当に終わりはありません。
学問研究とはそんな作業です。しかし、学者として、こんな状況にひるんでいてはなりません。皆さんは、この終わりなき探求をずっと続けて行く力とエネルギーが必要なばかりでなく、この永遠に続く謎解きを楽しめなくてはなりません。もちろん、一つの仕事が終われば、当然、満足を味わって結構ですが、自然探求とは終わりがないものなのです。振り返れば、うしろには、「すでに知られている事柄」の海があります。そして、先を見渡せば、そこには、「まだ知られていない事柄」の広大な海がひろがっています。
私は、皆さんに、博士号の価値とはどんなものなのか、個人的に真剣に考えていただきたいと思います。博士号を授与された皆さんは、今日から、その分野の学問的エキスパートとして公式に認められることになります。博士号は、これから先の学問的キャリアのための通行証のようなものでしょう。しかし、それは、あなた個人にとって、どんな意味を持つものでしょうか? 博士課程を通じて、皆さんはどんな能力を身につけたと思われますか? この何年かを過ごしたあと、博士課程を始めた数年前の自分自身と比べて、どのようにより強く、より競争的に有利に、またはより賢くなったと思われますか? このようなことに思いめぐらせると、自分自身の能力や将来のキャリアについて、また別の自己評価が得られるのではないでしょうか。
皆さんは、自分がもともと選んだ分野で研究者の道のりを歩んでいくことこそが唯一の選択である、または、唯一の望みであると思っておられるかもしれません。まだもっと、細かいところを詰めて明らかにせねばと思っておられるかもしれません。今のところは、それで結構です。でも、しばらくしたら、遅かれ早かれ、もっと大きな絵を描かねばならなくなります。
近い将来に、皆さんは、自分の研究領域を変えたいと思うようになるかもしれません。それは、もともとの研究方向に行き詰まりを感じたからか、隣接する別の領域の方が魅力的に見えるからかもしれません。はたまた、どうしても人生の道筋を変えざるを得なくなる状況に放り込まれるかもしれません。これは警告ですが、学問の世界では、つねに生活は平穏とは言えませんし、昨今の仕事と言えば、この急激に変化する、ある意味でカオスとも言える時代においては、どんな仕事も先行き平坦とは言えないでしょう。
そして、さあ次に何をしようかと考え直すときが来たとき、より大きな絵を描けることは必須です。学位を取得する過程で、皆さんは、そのような大きな絵を描く潜在能力を培ったと私は思います。皆さんは、それぞれの領域で、どんな疑問や困難に直面しても、なんとかそれを解決するある程度の知識と能力を備えています。今度は、それをもう一つ次元を上に上げて、その分野におけるこれらの特別な能力を、もともとの領域ではないところでも発揮できるようにしていただきたいと思います。
皆さんがたの中には、結局、学問の世界ではないところで生きる道を見つける人もいるかもしれません。別のキャリアを選択することを、失敗とみなしてはいけません。博士号を取得する過程で身につけたさまざまな能力は、もともとの研究分野でのみならず、研究以外の諸活動でも十分に価値あるもののはずですし、皆さんには、それを自覚していただきたいと思います。どこへ行こうと、どんな課題に直面しようと、博士号を持った人物として、より良い道を見つけられることを望んでいます。
大きな絵を描くために、私が一番重要だと思うのは想像力です。今自分がいる地点から飛び立って、「既知の事柄」の海と「未知の事柄」の海の両方を眺め、そして自分自身をも客観的に見ることを可能にする想像力です。
1977年に私が修士論文を提出したとき、それは手書きでした。1985年に私が博士論文を執筆していたとき、それは手書きではなく、私はパソコンを使っていました。私は、自分の研究室で夜中に博士論文の第5章を一生懸命書いていて、突然、建物全館が停電になった、あの日のことを今でもよく覚えています。それはちょうど真夜中で、もちろん、その日の0時から全館停電になるというお知らせはあらかじめあったのですが、私はすっかり忘れていました。
そして、当時私が使っていたパソコンには、自動セーブの機能はついておらず、私は2時間以上も一度もセーブしないで書いていました。と言う訳で、私のそれまでの数時間の努力は、一瞬にして水の泡となりました。真っ暗闇の中で、自分を笑うしかすべがありませんでした。2時間後に電気が復旧したあと、私は、元気を振り起こし、記憶にしたがってもう一度入力しなおしました。もとのところまで復旧したのは、午前4時ごろでした。若かったので出来たことです。
あれから、テクノロジーは確かに進歩しました。今日、私たちの社会は急速に変化しています。AI、 IoT、ビッグデータ処理、SNS、バーチャル・リアリティといった新しい技術が出てきて、次はソサエティ5.0になるとか、第4次産業革命だとか、いろいろと言われていますが、どんな社会になるのか、私にはまったくわかりません。わたしだけではなく、単純に楽観的に考える人々を除き、誰にも想像がつかないでしょう。
このような新しいタイプの情報技術は、人間の本性を本質のところで変えていくと、私は考えています。どんなテクノロジーも人間の社会を変えますが、今度は、その影響は非常に大きいと思います。それは、これらの情報技術が、私たちがどのように世界を感知するか、どのようにして互いの社会関係を築くか、周囲の世界に対して何をする意思決定をするかを変えるだろうからです。私たちがこれらのことをしているのは、情報処理を通じてなのですが、これらの技術は、私たちがどのようにして情報を集め、それをどのように処理するかを変えるでしょう。機械の情報処理能力が人間のそれを上回る。シンギュラリティが近い、とはよく言われます。しかし、問題は、情報処理のスピードや、情報を抽出してくるメモリーの大きさの話だけではないと私は思います。
これらの情報技術は、私たちが外の世界をどのように想像するか、物理的世界、生物的世界、人間の社会的世界、すべてをひっくるめて、私たちが世界とどうかかわるのかを変えるでしょう。このような環境に生まれてきた赤ちゃんが、どのようなおとなに育つか、想像してみてください。そのような時代の人間の本性は、昨日までの世界の人間の本性と同じではないと私は思います。ソサエティ5.0の世界の人間は、ヒューマン5.0で、私たちとは異なるバージョンの人間たちかもしれません。
私は、これが良いとか悪いとか、嘆かわしいとか言っているわけではありません。それはどんな世界観を持つかによります。しかし、私たちは将来どんな社会を作りたいと思うのか、私たちみんながじっくり考えないといけません。昨日までに世界にはもう絶対に戻れないのですから。皆さんは、それぞれの分野で、普通の人たちよりもずっと多くの知識を修得し、問題に取り組む方法も学びました。これから、その経験をもとにして、よりよい未来を築いていける英知を、皆さんが持っていただきたいと思います。
本当におめでとうございます。そして、幸運を祈ります。

2017年9月28日

総合研究大学院大学長 長谷川 眞理子

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