2026.07.28
【プレスリリース】ナノ細孔の「揺らぎ」がわずかに質量の違う分子を分ける–動的ナノ細孔における質量選択輸送の新しい原理を解明–
- 柔軟な多孔性結晶(Soft Porous Crystal:SPC)のナノ細孔※1における「揺らぎ」が、分子のわずかな質量の違いを大きな輸送速度の違いへと増幅する仕組みを理論的に解明
- 単一のエネルギー障壁を越える現象として知られていた「共鳴活性化」の考え方を、周期的なナノ細孔中の長時間拡散へと拡張し、質量選択的輸送を予測する理論的枠組みを構築
- 細孔の揺らぎを「制御すべきノイズ」ではなく、新しい輸送特性を生み出す「新たな設計次元」として捉え直し、配位子置換や外部刺激による分離制御の可能性を提案
【概要】
自然科学研究機構 分子科学研究所・総合研究大学院大学の斉藤真司教授らと京都大学アイセムス(高等研究院 物質-細胞統合システム拠点:WPI-iCeMS)の北川進特別教授らの研究グループは、柔軟に揺らぐナノ細孔をもつSoft Porous Crystal(SPC)において、分子のわずかな質量の違いを、大きな輸送速度の違いへと変換する物理原理を理論的に解明しました。
SPCでは、細孔の構造が時間的に揺らぐため、従来の静的な細孔材料とは異なる輸送特性が生じる可能性があります。実際に2022年、北川教授らは、SPCを用いることで水同位体分子の高度な分離が可能であることを実験的に示しました。しかし、こうした動的ナノ細孔が、どのような一般原理に基づいてわずかな質量差を大きな輸送差へと変換するのかは明らかになっていませんでした。本研究グループは、SPCのゲート部分が時間的に揺らぐという特徴に着目し、ナノ細孔中を分子が拡散する過程を、時間的に変動するエネルギー地形上の輸送として捉え直しました。その結果、揺らぐエネルギー地形上の反応速度の変化として提案されていた「共鳴活性化」の概念を、単一の障壁通過ではなく、周期的なナノ細孔中を分子が長時間拡散する問題へと拡張し、拡散係数※2と質量選択性を直接予測できる独自の理論モデルを構築しました。さらに、量子化学計算に基づいたエネルギー地形と組み合わせることにより、「細孔の揺らぎの速度」と「分子が障壁を越える速度」が一致したときに輸送が最大化されること、さらに、その時間スケールが質量に依存することにより、分子のわずかな質量の違いが大きな輸送速度の違いへと増幅されることを理論解析と実在のSPCに対する計算に基づいて示しました。
本成果の特徴は、揺らぐナノ細孔における質量選択輸送が、特定の材料に限られた現象ではなく、一般的に起こり得る物理機構であることを示した点にあります。さらに、この理論は、2022年に報告されたSPCにおける水同位体置換体※3分離の実験結果も説明します。これにより、細孔の揺らぎをデザインすることで、従来の「サイズによるふるい分け(静的設計)」では困難であった精密分離を可能にする「揺らぎによるふるい分け(動的設計)」という新パラダイムを提示しました。
この理論研究による成果は、英国の科学雑誌「Nature Communications」に2026年7月15日に掲載されました。
揺らぐナノ細孔における揺らぎ駆動型質量選択輸送の概略図
(a) 物性がほぼ同一な二種類の分子種(例えば水同位体分子)が、揺らぐエネルギー障壁を通過する際の輸送機構を概念的に分類した模式図。分類は、細孔開口径(dw)とゲスト分子径(dg)の関係に基づく。dw≈dgの場合、細孔の揺らぎは分子が感じるポテンシャルエネルギーを大きく変調し、その結果、質量依存的な拡散係数の違いが生じ、質量選択性が発現する。一方、dw≫dgの場合、細孔の揺らぎによるポテンシャルエネルギーの変調は小さく、質量選択性は低下する。また、dw≪dgの場合には、両分子種とも輸送が著しく抑制されるため、選択性はほとんど、あるいは全く生じない。(b) 一定の高さのエネルギー障壁を越える拡散。障壁高さが時間的に変動しない場合、水同位体分子の選択性は静的な質量スケーリング則によって決定される。(c) 揺らぐエネルギー障壁上での拡散。障壁高さが確率的に変調されることにより共鳴活性化が生じ、障壁通過は一時的に障壁が低くなった時間帯に優先的に起こる。軽い粒子は低障壁状態をより短時間で通過できるため、このような揺らぎはわずかな質量差を大きな選択性へと増幅し、静的な質量スケーリングの限界を超える質量選択輸送を実現する。
1.背景
多孔性金属錯体(MOF: Metal–Organic Framework)※4は、2025年ノーベル化学賞の対象となった、金属イオンと有機分子からなる多孔性材料です。MOFは内部にナノサイズの空間をもち、二酸化炭素の捕集、水素やメタンなどの気体貯蔵、水の捕集、分子分離などへの応用が期待されています。
MOFの中でも「Soft Porous Crystal (SPC)」と呼ばれる柔軟な多孔性材料は、細孔の入口や内部構造が時間的に揺らぐという特徴をもっています。2022年、北川教授らはこのSPCを用いると、サイズも形も化学的性質もほぼ同じ軽水(H2O)と重水(D2O)の拡散速度が2倍以上も異なり、両者を分離できることを実験的に示しました。軽水と重水の分離は、分子サイズや化学的性質の差が極めて小さいため、分離が非常に難しい課題です。分子が狭い空間を通過する時、拡散係数が分子質量の平方根の逆数に比例することが知られています。この結果に基づくと、軽水と重水の拡散係数の比はせいぜい約5%程度の違いにとどまると考えられ、北川教授らが見出した2倍以上の拡散速度差の物理的起源については未解明であり、柔軟に揺らぐナノ細孔がどのように質量選択的な輸送を生み出すのかを説明する一般的な理論も確立されていませんでした。
2. 研究内容と成果
本研究グループは、ナノ細孔の揺らぎを「時間的に変動するエネルギー障壁」として捉え直し、分子の輸送過程を統計力学的に解析する理論的枠組みを構築しました。このように現象を捉えることにより、これまで単一の障壁通過で知られていた「共鳴活性化」の概念を、ナノ細孔特有の「周期的なエネルギー地形における長距離輸送」へと拡張することが可能となり、特定の障壁揺らぎの速さにおいて輸送が大きく加速されることを示しました。また、ナノ細孔では、拡散係数が質量に依存します。本研究では、この質量依存性が、揺らぐエネルギー障壁上での通過時間の違いとして現れることを明らかにしました。軽い分子は、一時的に開いた低障壁状態をより短時間で通過できるため、ナノ細孔の揺らぎの速さが適切な条件を満たすと、軽い分子の輸送だけが選択的に促進されます。その結果、ナノ細孔の「開閉」のタイミングが軽い分子の通過時間と一致(整合)した条件で、軽い分子の輸送が選択的に促進される仕組みを解明しました。
さらに、本研究グループは、北川教授のグループが実験を行った[Cu(IDB)]と[Cu(OPTz)]という2つのSPCに対する量子化学計算を実施し、独自に組み立てた理論的枠組みに、その解析結果を組み込むことで、[Cu(IDB)]のみが高い選択性を示す実験事実を量子化学計算から得られたエネルギー地形に基づき、調整パラメータを用いずに説明しました。これは、本理論が個別材料に対する後付けの説明にとどまらず、揺らぐナノ細孔に共通する普遍的機構を捉えていることを示しています。
3.今後の展開
一般的に、揺らぎとは、構造や性質を変化・撹乱させる制御し難い厄介なものと思われがちです。本研究は、このような「揺らぎ」に対する見方を転換し、ナノ材料設計における揺らぎの役割を捉え直すものです。本研究により、揺らぎこそが静的な構造では到達することが難しい分離を実現するための新たな設計次元であることを明らかにしました。
さらに、本研究は、配位子の置換によって細孔の揺らぎやすさや揺らぎの速度を調整したり、電場などの外場によって能動的にナノ細孔の揺らぎを変化させることで、水同位体分子に限らず、物理化学的性質が極めてよく似た分子の高選択的な分離技術や新しい輸送機能を創出するための理論的な設計指針を与えるものです。
4.用語解説
※1 ナノ細孔
1ナノメートル(10億分の1メートル)程度の非常に小さな孔。分子が通り抜ける通路となる。
※2 拡散係数
分子がどれくらい速く広がるかを表す指標。値が大きいほど速く移動する。
※3 同位体置換体
原子番号は同じで質量が異なる原子を「同位体」といいます。例えば、重水素(D)は水素(H)の同位体です。同位体置換体とは、分子を構成する原子の一部が同位体に置き換わった分子のことで、重水(D₂O)は軽水(H₂O)の同位体置換体にあたります。
※4 多孔性金属錯体
多孔性金属錯体(MOF:Metal–Organic Framework)は、MOFは日本語で「金属有機構造体」とも呼ばれ、2025年ノーベル化学賞の対象となった、金属イオンと有機分子からなる多孔性材料です。
5. 研究プロジェクトについて
本研究は、JSPS科研費(斉藤真司に対する基盤研究(A)JP21H04676およびJP26H02273、ならびに挑戦的研究(開拓)JP23K17361、北川 進に対する基盤研究(S)JP18H05262およびJP22H05005)および株式会社ダイセル(斉藤真司への研究助成)の支援を受けて実施されました。理論計算は、計算科学研究センターのスーパーコンピュータを用いて実施されました(24-IMS-C193および25-IMS-C223)。
6. 論文タイトル・著者
問い合わせ先
<研究内容について>
- 斉藤真司(サイトウ・シンジ)
自然科学研究機構 分子科学研究所/総合研究大学院大学 教授
電話:0564-55-7300
Eメール:shinji(at)ims.ac.jp - 大竹研一(オオタケ・ケンイチ)
京都大学アイセムス 特定拠点准教授
電話:075-753-9861
Eメール:ootake.kenichi.8a(at)kyoto-u.ac.jp
X (旧Twitter): @KitagawaGroup
<自然科学研究機構 分子科学研究所について>
自然科学研究機構 分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
電話:0564-55-7209
Eメール:press(at)ims.ac.jp
<総合研究大学院大学について>
総合研究大学院大学 総合企画課 広報社会連携係
電話:046-858-1629
Eメール:kouhou1(at)ml.soken.ac.jp
<京都大学アイセムスについて>
遠山 真理(トオヤマ・マリ)
京都大学アイセムス コミュニケーションデザインユニット
電話:075-753-9749
Eメール:cd(at)mail2.adm.kyoto-u.ac.jp
(at)を@に変更して送信してください。