2017.06.04

時代の風~第11回 変化するヒトの食習慣(2017年6月4日)

変化するヒトの食習慣

技術革新が奪う「社会性」

一人の食事はさびしい。私自身、やむを得ず一人で食堂に入ることもあるが、なんともわびしい感じがする。同じように一人で食べているほかの人たちを観察してみると、みんなスマートフォンを見るなど、何かしながら食べている。食べてはいるが、決して食事を楽しんではいない。

進化の歴史から見ると、ヒトの食事は必ずやみんなでとるものだった。およそ200万年前、人類の祖先が開けたサバンナに進出していったとき、動物を狩ることも、植物性の食物を採集することも一人ではできず、仲間と一緒に行った。そして、食料をキャンプに持って帰り、みんなで分けて食べた。

20万年ほど前から、私たちヒト(ホモ・サピエンス)が進化したが、ずっとこのような狩猟採集生活だった。獣でも魚でも、たんぱく源になる動物を捕獲し、食べられるように加工するには手間がかかる。種子、地下茎、葉などの植物性食物も、そのまま食べられることはほとんどない。あく抜き、毒抜き、煮て軟らかくするなど、なんらかの加工が必要である。これらの作業には火が必須だ。ガスなどないのだから、火をおこすのはこれまた大変な仕事。かくして、みんなが炉のまわりに集まって食べることになる。

1万年前に農耕と牧畜が始まった。しかし、とれたものを調理して食べる「食事」という行為の本質は変わらない。家族が炉のまわりに集まってみんなで食べる。家族以外の人間がそこに加わることもあるが、ともかく、食べるときは一人ではない。

文明が進むにつれ、材料の確保から加工までの過程が細かく分解され、それぞれが産業として分業化されていった。最終的に食材は食品として店で売られるようになり、人々はそれらを買ってきて、それぞれの家で食事を作るようになった。それでも、家に「炉」は一つしかないので、調理はそこでまとめてせねばならない。そこで、家族は一緒に食べることになる。

すべての動物は何かを食べねばならず、食べること自体は、各個人の栄養とエネルギーの摂取であり、それは個体の行動である。しかし、ヒトにおいては、食べることは社会行動でもあったのだ。誰かと一緒に食べることは楽しいし、一緒に食べる相手がいるときの方が、一人のときよりも食が進む。食事に招待するのはおもてなしであり、親密さの表現でもある。

最近、食事の様子がどんどん変化している。材料から自分で調理して食事を作る人が減ってきた、家族でもみんなばらばらで好きなときに好きな物を食べる、ほかの人から離れてわざわざ一人で食べる「個食」、子どもが家に帰ってきても誰もいないので一人で食べるなどなど、食習慣の変化に関する指摘は多い。

背景にはいろいろな社会の変化があるが、こんなことを可能にしたテクノロジーの発達の影響は大きいと私は思う。それは、電子レンジ、冷凍・加工食品、ペットボトルである。電子レンジは、いちいち火をおこさなくても簡単に食事ができるようにさせる技術である。ガスレンジもたき火に比べれば簡単だが、「チン」とやってすぐに食べ物が用意できるわけではない。

電子レンジをフルに活用するには、冷凍または加工のレトルト食品を作る技術が必要で、それは、電子レンジの普及と手に手をとって発達した。このようなものが安く手に入るようになれば、食事を作ることは非常に簡単になる。そして、誰もそれを期待していたわけではないが、みんなが集まって同じ時間に同じ物を食べなくても暮らせるようになったのである。

ペットボトルという技術は、自分の好きな飲み物を持ち歩いて、好きなときに飲むことを可能にした。こんなものがなかった時代には、「お茶を飲む、お茶を出す」のも火を使って準備するものであり、「お茶の時間」は、複数の人々が集まってする社会的行為だった。ペットボトルがある今は、その必要はない。

食事を作る手間を省きたい、簡単に食べたいという要求は、忙しく働く環境からの要請である。その結果、電子レンジや加工食品やペットボトルという技術が生まれた。しかし、これらの技術は、まったく意図せずして、ヒトの「食べる」という行為から社会性を奪っている。

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