2018.08.05

時代の風~第21回 意見言わない日本人 世界から置いてきぼり(2018年8月5日)

意見言わない日本人 世界から置いてきぼり

もう10年以上前になるが、ある私立大学に勤めていたころ、環境問題を論じる1年生のゼミを担当したのだが、みんなが黙っているので困った。あとで学生に聞いたところ、高校までずっと、自分の意見ははっきり言わない方がよいという教育を受けてきたと言う。なんですか、これは!?

その数年前に、アメリカのエール大学で教えていたときには、こんなことは全くなかった。みんな自分の意見を言いたくて言いたくて、中には発言すること自体を目的にくだらないことまで言う学生もいて、そういう発言を封じるのに苦労した。「言いたがり」と「言いたがらない」が競争したら、「言いたがらない」文化は負けると直感した。この違いはいったいどこから来るのだろう?

一般的に、日本人は自分の意見を表明しない。まずは、その場にいる他者がどんな意見を持っているのかをいろいろと探る。そして、みんなとあまりかけ離れたことは言わないようにする。そうなると、異なる意見は表に出てきにくい。だからと言って、異なる意見がないわけではない。やがてそれが高じて不満がたまると、会議とは別のルートで表明され、対処すべく、また別のルートで調整することになる。

私は、こんなことが日本人の意思決定を遅らせ、社会を変えるプロセスを遅らせ、生産性を低下させている重要な原因の一つではないかと疑っている。

日本人のおとなの意識について、数多くの研究やアンケート調査がこれまで行われてきた。それらを総合すると、日本人の成人男性(お父さんたち)の多くは、自分の意見をしっかり持っている。そして子どもにも、自分の意見をしっかり持つおとなになってほしいと願っているようだ。ところが、自分自身、その意見を公にするかというと、あまりしない。そして、自分の子どもも、むやみに自分の意見を表明しない方がよいと思っている。なぜなら、そういうことをすると周囲に嫌われるから、というのが大半のお父さんたちの意見なのだ。

大半のお父さんたちが自分の意見を持っているのにそれを言わない。そんなことをすると嫌われると思っているから。だったら、みんなで一斉にそんな「自己規制」はやめにして、誰でも意見を表明するようにすればいいではないか。これは実にくだらない自縄自縛である―と以前のわたしは思っていたのだが、しかし、そうではないのだ。

こんなお父さんたちは、あえて意見を言わないでいる自分をさしおいて、自分の意見を言う人がいると、不愉快なのだ。「そんなことをすると周囲に嫌われる」というのは、あたかも社会を客観的に観察して述べているように装ってはいるが、実は「そういうことをするやつは、私は嫌いだ」という自分自身の態度を表現しているのである。

「日本人は」という言い方をするが、私が若かったころは、これほどではなかったと思う。安保があり、ベトナム戦争があり、公害・環境問題があり、大学紛争があった。みんな、政治に関しても何に関しても、いろいろ議論していたと思う。それがなぜ、こんなに異なる意見を表明することを嫌うようになったのか?

私が若かったころは、個人の自由を実現するために闘わねばならないと思っていた。

今は、個人の自由が実現されたのだろうか?私たちの時代に比べて経済的に豊かになったので、何でも好きにできるという自由は増えただろう。その上で、ネットなどの技術が急速に普及し、その利便性と個人の自由との間のあつれきに関しては、あまり議論されない。

そして、今の若い人たちは、対立が表面化することを極端に恐れる。閉鎖的で個人の移動がしにくい社会では、意見のぶつかり合いは嫌われる。グローバル化した社会というのは、個人の移動やグループ形成が自由な社会のはずだ。そうならば、今の若い人たちの方が、私たちの若いころよりも自由なはずなのだが、なぜ、彼らは意見の対立が表面化することを嫌うのだろう?

さまざまな意見をたたかわせ、それに対処するすべを身につけなければ、これからの世界で決してよい方向には進めない。日本は何かがおかしいと思うのは、私だけか?

毎日新聞掲載「時代の風」バックナンバー

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