時代の風~第48回 高等教育の目的と意味 「個人の幸せ」の視点必要(2021年10月10日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

高等教育の目的と意味 「個人の幸せ」の視点必要

昨今、大学改革がさかんに言われ続けている。日本の大学の論文発表数などが減り、世界の大学の中での存在感が薄くなってきた。それに対する危機感と、日本経済が伸び悩む中、大学にもっと経済発展に寄与してほしいということが動機になっているらしい。

そんな中、今年 3 月に文部科学省が、大学に対して 10 兆円規模のファンドを創設するという案を出した。政府支出の 4 ・ 5 兆円を出発点とし、民間などから募って、なるべく早いうちに 10 兆円規模にするという。このファンドを運用して、大学経営をすると手を挙げた大学に配るのだが、応募するためには、大学運営のあり方をドラスチックに変える必要がある。こうして日本の大学自体のあり方をも変えようとしている。

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日本の大学が現状のままでよいはずはない。だから、 10 兆円ファンドによって日本の大学を変え、多くの研究成果を出せるようにし、日本を発展させよう、というのはよいことだ。が、私がここで問題にしたいのは、別の点である。高等教育の目的と学ぶ個人にとっての意味についてである。

初等中等教育は、国民全体に等しく基礎的な教育を与えることが目的だ。誰もが、ある程度の知識とスキルを持ち、現代社会の中で自分の力を発揮しながら暮らしていけるようにするのである。読み書きや計算をはじめとする知識と能力がなければ、その後の人生を充実したものにすることは難しいからだ。

国民全員がきちんとした初等中等教育を受ければ、国全体がよくなるに違いない。だから国が教育政策を考えるのだが、しかし、学ぶことの本来の目的は、個人の幸せのためである。

その先の大学は、第一に、初等中等教育以上の高等教育を担うことがミッションだ。では、高等教育の目的は何か。これも、国全体の経済の活性化に役立つ人材をつくるというような、「国力のため」ではなく、どんな人間に育つのか、個人にとっての目的があるはずだ。

それは、現状の範囲内で自分の力を発揮して暮らしていける以上の力を持つことだろう。それは、ものごとを批判的に分析する、異なる文化や言語や価値観の存在を知った上で、それらの違いを超えて問題解決の方向を探る、新しい問題提起をし、新しいビジョンを想像する、などができる力を持つことではないか。

どんな分野であれ、学問とはこのような能力をもとにして行われているので、大学では学問を教えている。その中でどんな学問分野を選ぶのかは、個人の好みの問題だが、その道の学者になるのではなくても、学問の営みを通じて、前述のような力を身に付けることが高等教育の目的ではないか。

こういう能力を育んだ人は、社会の中で、ほかとは異なる役割を果たせるだろう。 18 歳のときに、そんなことを学びたいと思わなかった人も、しばらく社会で働く中で、それを目指すようになるかもしれない。それも結構。高等教育は何も、高校を出てからすぐに続くだけのものではない。

大学の教育のやり方は、昨今はずいぶんと変わってきている。一番大きな変化は、ただ単に先生が教えたいことを教えるのではなく、学生たちがどう調べてどう考えるか、学生中心の学び方に重点を置き始めたことだろう。それを「アクティブ・ラーニング」と呼ぶ。そして、ある学問についての知識を深めるだけではなく、そうして学んだことをもとに、他の場面でも活躍できるような思考体系を身に付けることを自指す。これを「トランスファーラブル・スキル」と呼ぶ。

英語の名称がそのまま使われているのは、これらの考えが、ごくごく最近になって取り入れられるようになったことを示している。そして、こういう教育改革の話は地味なのか、あまり大きく取り上げられない。

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10兆円ファンドの話は、研究開発を促進することであり、新しいタイプの大学でイノベーションを起こして、新たな経済発展に貢献する人材を育成するということだ。それは大事なことだし、これがもとになって、教育のあり方や個人の学び方全般にも変化が出てくれば、喜ばしいことだ。

どうも日本での「人材育成」という言葉は、国全体のためにという論調が強く、個人がどんな人間に育つのか、という視点が薄いように思うのである。

( 2021 年10月10日)

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