時代の風~第33回 希望抱けぬ新年~理想をどう議論するか~(2020年1月12日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

希望抱けぬ新年~理想をどう議論するか~

新しい年を迎えた。何かと先の見えない時代であるが、読者のみなさんは、今年の 1 年にどんな期待を抱いておられるだろうか ?

今から 100 年前は 1920 年。 20 年代とはどんな時代だったのか、私は知らないが、二つの大戦のはざまである。大衆文化が育まれるようになり、大正デモクラシー運動も起こる一方、金融恐慌や関東大震災もあった。そしてファシズムが台頭し始めた。

50年前は 1970 年。 70 年代ならよくわかる。私の青春時代だ。大学紛争とべトナム戦争反対で荒れた。それまでの高度成長は、オイルショックで一応の終わりとなる。コンビニやスーパー、ファストフードの店が全国的に広がった時代。

いつの時代もよいことと悪いことがあり、予想外のことも起こった。それでも、この 100 年を振り返ると、全体として、社会はきっと良くなる、という希望はつねに持たれていたのではないだろうか ? 科学の進歩は人々に幸せをもたらし、試行錯誤によって、社会の運営は必ず良くなる、という信念である。

事実、確かに世の中は良くなった。乳幼児死亡率は下がり、人々の寿命は延びた。第二次世界大戦以降、大きな戦争は起こっていない。暮らしは便利になり、最貧困層の人々でさえも、その生活は向上した。人々は、より自由になった。

では、なぜ、今、かつてのように無条件に、未来は明るいという希望をみんなが持てているという気がしないのだろう ?

一つには、経済的な発展が右肩上がりに続くというフェーズが終わりつつあるのだろう。毎日の暮らしに必要な便利な物はたくさんあるし、選択肢も広がった。何もない貧しいときには、何でもある素晴らしい世界を想像できるが、欲しい物がほぼ手に入る世界では、もっと素晴らしい未来はなかなか思いつけない。

しかし、そうであったとしても、将来は明るく見えてもよいのではないか ?

それがそうでもない。

米国の大統領が、これまでの米国としては考えにくい政策を次々と打ち出す。英国が欧州連合( EU) 離脱を決める。共産党一党独裁でありながら市場原理を取り入れた中国が、すごい経済発展を成し遂げていく。

東北の大震災と津波、福島原発事故の痛手の記憶は強く残り、台風などの自然災害の多発は、気候変動の深刻さを考えさせる。

人工知能の進歩は目覚ましいと言われるが、それで私たちはどうなるのだろう ? 遺伝子の改変も可能になるのだろうか?すべての物がネットにつながり、便利になる一方で、大量の個人情報が取られたり、流出したりする。これらの事態は、人々にすごい格差をもたらすのではないか ?

それやこれやは、信じてきた価値観や社会の常識が通用しなくなるかもしれない、まったく違う社会になるのかもしれない、という不安だろう。そして、その不安をどのようにして解消したらよいのかがわからない、という不安である。

私たちの文明は、大きな転換点を迎えているのかもしれない。

狩猟採集時代から農耕と定住生活の時代に入ったときには大きな価値観の転換があった。手に入るもので満足し、食料が取れなくなったら移動するというその日暮らしから、計画を立て努力して働く暮らしになった。それまで考えつきもしなかった、蓄財が可能になった。都市が生まれ、職業が分化し、貨幣で物やサービスのやり取りをするようになった。そして、権力と不平等と搾取が生まれた。

そこから、長い年月を経て、自由と平等や人権の概念が獲得され、それらの理想の実現のために、ときには革命などの暴力も含めて人々は闘ってきた。その理想は、いまだに完全に実現してはいない。ところが、その理想のもとに隠蔽(いんぺい)されてきたもろもろの悪感情が噴出し、あの理想はもうやめようかということにでもなったのだろうか ?

インターネットとソーシャルメディアの時代に、どうやって社会を良くするため議論をしていくのか。

イデオロギーが死滅する時代に、政党政治は残れるのか。自分中心主義が蔓延する中、他者への関心と政治参加をどうやって保つか。持続可能な社会はどうやって作れるか。問われているのは、理想を議論する新しいプラットフォームなのかもしれない。

( 2020 年 1 月12日)

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