時代の風~第51回 博士課程院生への支援 学術への尊敬あるか(2022年2月20日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

博士課程院生への支援 学術への尊敬あるか

最近、日本政府は、大学院の博士後期課程に在学する院生に対して、経済的援助をする取り組みを導入し始めた。その一つが、「次世代研究者挑戦的研究プログラム」である。これは、既存の学問の枠組みを超えて、新たな研究を志向する博士後期課程の院生に対し、生活費相当額および多少の研究費を支給するものだ。

こんなことが行われるようになった背景には、我が国の博士後期課程に進学する院生の数がどんどん減少しているという事実がある。大学の学部を卒業したあとに修士課程に進学する学生数は増える傾向にある。しかし、修士課程修了後に博士課程に進学する者、つまり、博士後期課程進学者の割合は、 1981 年度には 18 .7%であったものがどんどん減少し、 2018 年度には 9.3 %になってしまった。

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では、それはなぜなのかといえば、過去における国立大学の運営費交付金の減少などの結果、大学における研究者のポストが全体として減少したこと、とくに若手研究者は 3 年や 5 年の有期契約によるポストしか見込めないことで、要するに、研究者になって生活していく道に将来が見えないからなのだ。そこで、博士後期課程の院生は、学生というよりも「次世代を担う若手研究者」なのだから生活費を保証してあげようということで、先の事業が始まった。

ところで、博士号をめざす若手研究者は「学生」ではなくて給与が出るというのは、ずいぶん以前から欧米では当たり前のことだった。ところが、日本では博士後期課程の院生も「学生」なので、入学金と授業料を払わなければならない。これでは、学生の取り合いになったとき、日本の大学は欧米の大学とはとても戦ぇないのである。

思い返せば 30 年ほど前、生化学の若手研究者の集まりに招かれ、彼らと議論したことがあった。その当時、博士課程の学生にはなんの特別な支援もなかった。彼らは窮状を訴えるのだが、周囲の人々はみな、「学部を卒業したら就職し、苦労して働くのが当然なのに、大学院に行こうというのは、個人の趣味の問題だろう。そこに支援する必要などまったくない」という意見だと嘆いていた。日本という国は、長らくそういう考えだったのだろう。つまり、学問は趣味の問題なのだ。

ここには、日本のいわゆる「タテ社会」という構造が関係しているのではないだろうか。学者というのはごく一部の人たちのことであって、普通の人たちには関係ない世界なのだ。学者側もそう思っているから、学者以外の世界とのつながりがない。企業は自分たちで優秀な人材を育てるのが一番と思っていたので、大学の博士号取得者を採用する気はない。学者側も、自分たちの後継者を育てることだけを考えていたので、他の世界で通用する人材を育てようという気はない。

こんなことが長らく続いてきたのだと思う。しかし、いつのころからか、科学の発展が新しい技術を生み、それが経済発展の原動力となるのだという認識が広まった。そこで、科学は単なる趣味の問題ではないということになった。「次世代研究者挑戦的研究プログラム」には、こんな状況を打破しようという複数のもくろみが見て取れる。

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このプログラムの概要を説明するページにも書いてあるが、博士後期課程の院生に生活費を支給するのだが、そのためには、既存の分野をまたいで新しい研究に挑戦する院生でなければならない。大学も、それを支援しなければならない。大学の研究室の閉鎖性、そこで同じような研究をする研究者を育てているだけの状況が、国の発展を阻んでいるという認識から、研究室の壁を取り払って、新しいことを考え、社会の課題の解決に貢献できるような研究を促進しようとしている。

それは結構なことなのだはが、私には根本的な疑問がある。日本には、純粋に学術を尊敬するという文化的土壌はあるのだろうか? 何事にせよ、知っている方が知らないよりもよい状態であるに違いない。しかし、知るためには、それなりに確かな研究が必要であり、そう簡単ではない。そのような研究にたずさわって「知る」ことに貢献する仕事は、それが何を知ることであれ、「知る」ための方法の発展も含め、人類全体にとって重要な貢献だ、という共通認識はあるのだろうか?

( 2022 年2月20日)

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